エディトリアル  Jul - June 2000

加藤弘一
June 2000までのエディトリアル
Feb 2001からのエディトリアル

Jul15

 急ぎの原稿が終わり、やれやれというところですが、まだ本命の原稿が残っていて、これから消耗戦がはじまりそうです。ただ、その前に、思いがけず、誤解をまねく結果になったので、一つ、書いておかなければならないことがあります。

 先月、中村正三郎さんのホームページで、拙著に過分な評価をいただき、恐縮していたのですが(中村さんのページで知ったというアンケートの回答を随分いただきました)、その後、拙著の多言語処理に関する記述に幼稚な誤りがあるというメールが届いたということで、一時、ディベート状態になっていたようです。

 問題になったのは、チベット語の処理が難しいと書いた部分で、苫米地さんという方がが中村氏に次のようなメールを書かれたそうです。

 私事にわたりますが、GNU Emacs のチベット語処理の実装に関わっておりま

す縁で、去る3月に電総研主催で開催されたm17n2000シンポジウムにご招待を

いただき、久々に帰国をいたしました。その際、仏教学・東洋学での漢字処理

の第一人者である某教授とお話する機会がありました。そこで某教授が開口一

番私に言われるには、「苫米地さん、この本の批判を書いてくれませんか」と

のこと。そして「この本」というのは他ならぬ『電脳社会の日本語』だったん

です。もちろん私は漢字は素人なので、どういうことなのかいぶかっていたの

ですが、同書の196ページ以降のアジア系言語の処理の箇所で加藤氏が書いて

いることはどの程度あてになるのか、ということのようでした。というわけで

『電脳社会の日本語』に目を通してみますと、たとえば加藤氏は同書p.197で、

「これに対して、デーヴァナーガリ(ママ)文字系やアラビア文字系の表記体

系の編集は桁違いに難しく、とりわけチベット文字系の表記体系は難物だとい

われている」

と書いています。しかし実際には、加藤氏が列挙する文字体系のうち、もっと

も単純で実装しやすいのがチベット字なのです。「いわれている」というのは

どこで聞きかじってきたのか知りませんが、文字の組合せパターンが一方向だ

けではないデーヴァナーガリーなど(合字の構成要素が上下左右に位置する)

と違い、チベット語のリガチャーは基本的に垂直方向に要素を積みかさねるだ

けなので、ずっと単純です。また、合字の可能なパターンの数でも、デーヴァ

ナーガリーなどのインド系文字にくらべれば遥かにすくなくてすみます(これ

は、バッファ内部のコード配置からスクリーン表現への変換の際に重要になる

要素です)。実際、Emacsのデーヴァナーガリーを実装されている方は、この

へんで大分苦労なさっているようです。また、チベット字に話を限れば、

Unicode は加藤氏が言うほどダメダメな文字セットではありません。

 苫米地さんが指摘されているのは、チベット文字の表示がデーヴァナーガリなどと較べれば簡単だということです。

 わたしはチベット文字や多言語処理の専門家などではなく、取材者として聞きかじっただけですが、チベット文字の表示が比較的簡単という話は早い段階で耳にはいっておりました。

 チベット文字は、苫米地さんがあげられている特徴にくわえて、母音が落ちても字形が変わらない場合が多いという点で、表示が楽だそうです。ところが、編集する段になると、これがかえってネックになるというのです。

 デーヴァナーガリ文字では、拙著の補説拾遺の「結合音節文字の編集」に書いたように、母音が落ちると字形が変化しますが、チベット文字では字形が変わらないために、どの字に母音が残り、どの字から母音が落ちているかが見かけ上、区別できないわけです。図形を元にした文字コードでは、コード上でも区別できないでしょう。

 たとえば、という語は、理屈の上ではに母音が残る場合と、に残る場合、に残る場合の三つの可能性があるわけですが、そのうちの最初の二つは実際に単語があるそうです。ローマ字に転写すると、第一の場合は [ma][ng][s] になり、第二の場合は [m][nga][s]にになりますが(発音も異なります)、がどちらの語かということは、文脈から判断するしかないわけです。

tibet

 また、表記上、母音変更子がつく文字と、発音上、母音の残っている基本文字が異なる場合が多いそうで、図形上の中心と音節上の中心がずれるというややこしいことになります。

 このことは、一昨年、早稲田大学でおこなわれたICMTP'98における大谷大の宮下晴輝先生の発表で知り、「文字コード問題を考える」に掲載したレポートで言及しました。宮下先生は、現在、マッキントッシュ上のチベット語環境として普及している大谷大のチベッタン・ランゲージ・キットの開発を推進された方とうかがっております。

 なお、このシンポジュウムには、中国社会科学院の江荻氏が出席しておられました。チベット語やチベット文字を使うコミュニティは、チベット自治区と青海省以外にも、南は雲南省から西は新彊、北は内モンゴルまで、広範に散在していて、江氏はそうしたコミュニティをフィールドワークしておられるということでした。

 さて、宮下先生の発表内容はICMTP'98の論文集に「チベット文字コードのデザインの考察」としてはいっているので、そこから引用しましょう。

 この1音節は、複数の文字から構成される事に注意が必要となる。複数の文字の結合による1音節の生成によって、その中の特定の文字の音価が変わる。即ち、結合によって図形の変更がなくとも、文字としては、別のものに変化するわけである。この区別がつけられないと、文字の正しい検索が不可能になる。音節中の特定の図形だけでは音価が定まらないという事は、この規約(以下に記述する)を知らなくては文字を判読もしくは決定できないことを示している。従って、特定の図形だけを示された場合、その図形がどのような音価を持つか決定できない場合があり、図形のみの知識で検索などのテキスト処理ができないことでもある。一方、図形だけで文字コードを作成すると、今度は文字としての検索が不可能になり、オーバー・マッチングなどの現象が起こってしまうどころか、ソートができなくなる。

 ユニコード(≒ISO 10646)では、字形が同一なら、母音が残っている、いないに係わらず、同一コードになるでしょう。それでは適切な検索や置換や整列ができないおそれがあるのではないでしょうか。

 現在提案されているチベット文字やデーヴァナーガリ文字の文字コード化では、ISO 10646のように、このような問題がすべて生じるため、入力と表示が可能であったとしても、テキスト処理の単位へ至るための変換情報を持ち得ないため、入出力系のみならず、テキスト処理系がアプリケーション・ソフトウェアにハードコーデッドで埋め込まれなければならないことが明白であり、複数の文字を用いての多言語処理どころか、特定の1言語に依存する地域化ですら、アプリケーション・ソフトウェアそれぞれで、動作が異なってしまう。勿論、OSが用意したテキスト処理が言語依存となり、特定の1言語用の環境しか用意できない事も明白である。

 ユニコード(≒ISO 10646)でもチベット文字の処理系は作れるけれども、いろいろ制約が出てくるのではないかというわけですね。

 では、多言語処理のためには、どんな文字コードが好ましいかというと、こうあります。

 チベット文字の情報交換用文字コードのためのコード化は、ラテン文字のように単純には行えない。それは、前述のように、図形が定められるだけでは、その図形に対する音価(発音上の音価ではない)が定まらず、その音価、即ちテキスト処理用の音価によって「文字」としての処理が可能になるからである。従って、図形を再現するだけでなく、テキスト処理を可能とする文字コードを決定しなければならない。

 もちろん、苫米地さんはこういう立場に対して異論をお持ちでしょう。しかし、それは多言語処理の最先端における議論であって、素人の聞きかじりと一蹴するのはいかがなものかと思います。

 さて、今回の騒動の発端は、SATの石井先生が拙著中の「編集」と「表示」の区別についていだかれた疑問にあると思います。

 拙著の「正誤表」を作るにあたり、石井先生には誤植を含めて、細部にわたって拙著の誤りを指摘していただき、大変感謝しております。

 このやりとりの過程で、石井先生は表記・印刷に関しては Mac などはかなり実用的なレベルにまで達していること、また、Windowsアプリでも、アプリ側でかなり対応しているものもある以上、それらを「超漢字」での 不慣れで未熟な多言語処理と同列に扱うのは不適切ではないか、コードに出来・不出来があるのは事実であり、コードが改善されればましになるが、それでもコードだけで出来ることには限界があり、OS やアプリ側で処理すべきことが残るはずだと指摘されました()。

 そして、「チベット語などについては、加藤さんの言う編集の作業のうち、いくつかの面についてはある程度できるようになってきているわけです。むろん、制約もあり、不充分な面も多いものの、以前にくらべればはるかに改善されてきたことは事実であって、これは、パソコンの言語環境の進展と苦労して工夫してきた研究者たちおかげです。こうした面も、言語や環境によって程度は様々である以上、現状では Mac その他のチベット語やその他の結合文字系の言語の処理はすべて「文字を表示するだけ」(196頁)であって、編集はまったくできないかのように受けとめられる書き方をするのは、誤解を招くものです。まして、Mac のチベッタン・ランゲージ・キット関係と、Emacs のチベット語パッケージについては、日本人が大いに活躍して国際的に貢献してきたのですから、きちんと評価したうえで、問題点と改良の方向を示唆すべきではないでしょうか」という趣旨の指摘をされ、「編集」とはどのような意味であって、どの程度のことを問題にしているのか、もっと具体的に説明しておくべきではないかという要望を呈されました。

 このあたりの話は、日本の研究者の努力によってチベット語の環境が飛躍的に改善されたということを含めて、取材の過程でいろいろうかがっております。関係者の血のにじむような御努力を軽視したわけではありませんが、わたしの筆力の不足と、新書という制約、紙幅の制限のために、意を尽くすことができませんでした。そのために、石井先生がご指摘になったような誤解が生じたとすれば、大変遺憾なことです。ただ、そこには現実の必要に迫られている研究者の視点と、現実から一歩引いた位置から、電脳社会の行方を考えようという拙著の視点との相違も影響しているかもしれません。

 

 それに関連してですが、今回、久しぶりに文字コードの資料を広げているうちに、編集を考えて設計した文字コードと、そうでない文字コードの違いは、オートマ車とマニュアル車の違いにあたるのではないかと思いつきました。

 利用者が文法と表記規則を完全に理解し、コンピュータが好きであれば、表示だけを考えた文字コードでも不便は感じないでしょう。ちょうど、運転の得意な人がオートマ車を必要とせず、むしろマニュアル車を好むように。

 ユニコード(≒ISO 10646)には南アジアの国々の国家規格となっている結合音節文字のコードがそのままはいっているのですが、そうした国々でも、編集のための文字コードという視点は生まれていないと、通産省関係の団体の方からうかがいました。その方は、こうした国々では、パソコン利用者は特権的なエリートか専門のオペレータに限られているので、もうちょっと利用者と利用分野の裾野が拡がらないと、編集が必要という関心は生まれないのではないかという醒めた見方をされていました。

 南アジアの国々に本格的なIT化の波が押し寄せた時、マニュアル車的な文字コードのままでよいのかと思うのですが、現時点でそんなことを云々するのは、先走った議論なのかもしれません。

 

 それにしても、文字コードの女神様の深情けにはまいりました。もう、これ以上、かかわっている余裕はないので、文字コードについて書くのは今回限りとさせてもらいます。

付記

 この段落から次の次の段落の「拙著の視点との相違も関係しているかもしれません」までは、石井公成様から誤解しているというご指摘をメールでいただき、書き直しました。

 最初は石井様の疑問を「あなたは編集のできる文字コードが必要と言っているが、サンスクリットやチベット語を日常的に使っている仏教の専門家が現状のシステムで不満を感じているという話は聞いたことがない。編集のできる文字コードと、表示しかできない文字コードという区別は妥当なのだろうか(ハードディスクのクラッシュのために、いただいたメールが残っていないので、記憶で書いています)」と要約してあったのですが、上と読みくらべていただければわかるように、これはわたしの誤解でした。なお、上記の文章は、今回、石井様からいただいたメールから引かせていただきました。以上、訂正するとともに、石井様にお詫び申し上げます。(Jul19 2000)

Jul22

 昨日と今日、NHKで興味深いドキュメンタリーを放映していました。

 昨日やっていたのは、NBC製作の『アメリカ先住民族のなぞ』で、番組欄には「発見された9000年前の人骨は"白人"?」という刺激的な副題がついています。1996年にワシントン州ケネウィックで白人のものと見られる保存状態のいい人骨が発見されたのですが、よく調べてみると、石の矢尻が骨盤に突きささっていたり、頭蓋骨に棍棒で殴られた痕があったりで、コロンブス以降の遺骨とは考えにくい。炭素14で測定したところ、9000年前のものだとわかったというのです。

 ところが、アメリカには先住民の遺骨はネイティブ・アメリカン(インディアン)に返還するという連邦法があって、コロンブス到着以前の人骨は、ネイティブ・アメリカンから請求があった場合、返還しなければならないのだそうです。

 この遺骨の場合、新聞が「先史時代の白人の骨を発見!」とセンセーショナルに報じたために、ネイティブアメリカンの部族が遺骨「返還」を要求し、即日、博物館から持ち去られてしまいました。「埋葬」されてしまったら、二度と研究できなくなるので、研究者は連邦裁判所に「返還」の無効を訴えたということです。

 『環太平洋インナーネット』によると、ネイティブ・アメリカンは自分たちの先住権をめぐる議論に神経質に反応し、考古学界の定説になっているベーリンジア(氷河時代に存在したベーリング地峡)渡来説にすら反発が多いそうです。ベーリンジア渡来説を認めると、おまえたちもアジアからの移民じゃないかと白人側からいわれかねないからで、これまでの迫害と差別の歴史を考えれば無理からぬことかもしれません。

 ここまでなら、ネイティブ・アメリカン側のPC(Political Correct)の行きすぎということになるのですが、番組は妙な方向にずれていきます。

 番組にはアメリカ先史時代を研究するさまざまな考古学者や人類学者が登場しますが、ケネウィックマンや、それとは別に発見されたスピリット・ケイブマンという遺骨ついて、ある学者はモンゴロイドの特徴(扁平な顔、細い目等々)を備えていないと強調した後で、一番近いのは日本のアイヌ民族だと語ったのです。

 そして、アイヌ民族説を強調するように、ベーリンジア渡来説でいう1万2千年前に開けたコロラド渓谷ルートとは別に、アラスカ沿岸の移住ルートの存在を示唆する研究を紹介します。アイヌ近縁の人びとが、ベーリンジア渡来以前から島伝いでアメリカに到達していたのではないかというわけです。

 きわめて妥当な説だと思いますが、唖然としたのは、アイヌ民族はモンゴロイドではなく、コーカソイド(白人種)だという説を紹介し、さらに、モンゴロイドが拡がる前のアジアに住んでいた「最初のアジア人」はコーカソイドと共通の特徴をもっていたと話が進んでいったことです。

 現在の日本の常識では、モンゴロイドには彫りが深く、体毛の濃い旧モンゴロイドと、寒地適応で顔が扁平になり、体毛が薄くなった新モンゴロイドがいて、アイヌ民族は琉球の人びと同様、旧モンゴロイドの特質を多く残していると考えられています。すくなくとも、アイヌ民族がコーカソイドだという説は、トンデモ学説というべきでしょう。

 番組では、アイヌ民族に似ているという先住アメリカ人は、モンゴロイド(実はモンゴロイド)の特徴を備えていないと強調し、コーカソイドであるかのような暗示を繰りかえしていました。アメリカではモンゴロイドには新旧の別があるという知識が広まっていないのでしょうか。

 「最初のアジア人は、最初のヨーロッパ人に近かった」という首をかしげるような断定もありました。これを見たアメリカ人の中は、アジアにも北米にも、もともとはコーカソイド(白人種)が住んでいたが、後から侵入してきた獰猛なモンゴロイド(黄色人種)によって絶滅させられたという印象を持つ人がいるかもしれません。これでは新手の黄禍論です。

 NBCともあろうTV局がこういうトンデモ番組を作っていたのも驚きですが、NHKがそれを無批判に受けいれ、「発見された9000年前の人骨は"白人"?」などという副題をつけて放映したのもあきれます。ベーリンジア渡来以外にも移住ルートがあったという指摘は重要で、この番組に意義があることはわかりますが、日本で放映するなら、まともな人類学者のコメントをつけるとか、対処法はいくらでもあったでしょう。

 さて、もう一本は、今日、NHKで製作した『アルプス山ろく祈りの大舞台』で、NHK総合でNHKスペシャルとして放映されました。バイエルンのオーバーアマガウという村で360年前から上演されているキリスト受難劇の2000年上演をめぐる経緯を描いたドキュメンタリーです。

 受難劇はイエスの処刑を描くわけで、当然、ユダヤ人が悪役として登場します。「マタイ伝」27章24-5節では、イエスをかばおうとしたローマ総督ピラトが、ユダヤ人保守派の処刑要求を受けいれる場面をこう描いています。

 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある」

 ADLなどのユダヤ人団体は「その血の責任は、我々と子孫にある」という台詞を問題にし、削除を要求し、村側の台本担当者と演出担当者が二年にわたって、交渉をつづけたわけです。オーバーアマガウ村の受難劇は、1930年代にナチスの反ユダヤ宣伝に利用されたという古傷をかかえているという事情もあるようです。

 バイエルンはカトリック圏ですから、ローマの意向がからんでくるのですが、ヨハネ・パウロ二世の和解政策を背景に、最終的にはこの句が削除され、2000年度の受難劇は無事、上演にこぎつけます。もっとも、初日を見たADL側は、これでも不満で、上演そのものをつぶしたいと考えているようですが。

 ユダヤ人問題にはフリーハンドの日本のNHKが製作しただけに、公平なドキュメンタリーに仕上がっていると思いますが、一つ気になったのは、バッハの『マタイ受難曲』はどうなっているのかということです。バッハはいいが、オーバーアマガウのような寒村の田舎芝居はけしからんということなのかどうか、このあたりを突っこんでほしかったと思います。

Sep17

 12日から14日の三日間、シアターコクーンに通って蜷川幸雄演出『グリークス』を見てきました。ただただ圧倒されました。今年最高の舞台であるのはもちろん、20世紀の最後を飾る文化的事件なので、急遽、「演劇ファイル」に観劇記を掲載します。

 10年前、文学座が上演したのが日本初演ですが、その時のメモも、今回、掲載しました。

 『グリークス』は英国の演出家、ジョン・バートンが十本のギリシア悲劇を再構成した作品です。2500年前の芝居なのに、多少圧縮しただけで、そのまま現代演劇になってしまうのですから、ギリシア人が偉大だったのか、人間が進歩していないのか。

 24日までやっていますが、若干、立見券が出るようなので、時間の都合のつく方はぜひご覧になってください。

Oct30

 一昨日、村上龍と村上春樹を論じた「ムラカミ、ムラカミ」を校了しました。東京直下型大地震でもない限り、来月の「群像」に載るはずです。半年がかりの原稿だけに、いっぺんに気が弛み、昨日の冷えこみもあって、体調をくずしてしまいました。

 なぜ半年もかかったかというと、この二年半、ずっと文字コードにかかわってきたせいか、文芸批評の書き方を忘れてしまったからです。まさかと思ったのですが、本当に一行も書けず、作品を読んでもあたりのつかめない状態がつづき、パニック状態におちいりました。

 こういう時には原点に還るしかありません。20歳前後に読んで感動した批評を引っ張りだし、あちこち拾い読みして、自分が引かれた批評とは何だったのだろうと再考するところからはじめました。

 自分の批評の原点はヌーベル・クリティックにあるということをあらためて確認しました。ヌーベル・クリティックは、構造主義やポスト構造主義の登場で、すっかり時代遅れになった観がありますが、批評として一番おもしろいのは、あの時代のものだと思います。バルトにしても、構造化する以前の『ミシュレ』と『ラシーヌ論』が一番読みごたえがあります。

 そろそろ「ほら貝」の五周年記念ですし、今年は20世紀最後の年で、ベスト10がはやっているので、「20世紀批評の10冊」という文章を準備しています。昔読んだ批評を、もう一度、読み直すという企画も考えています。

Nov20

 「批評」に掲載したゲスト講義の題名を「インターネット、主題と手段」から、内容に即した「村上龍、村上春樹、そしてインターネット」に変更します。創刊五周目の区切になる日に話した内容なので、早めに公開したのですが、題名がわざわいしたのか、読む人がひどくすくなかったからです。実読率はわりに高く、内容的にはおもしろいと思うのですが。

 今回、画像形式をgifからpngに変えたのですが、見えないというメールをいただきました。ログを調べてみると、古いIEとか、JustViewとか、png未対応のブラウザが散見しますし、「"Mozilla/1.22 (Windows; I; 16bit)"」なんていう博物館もののブラウザ(1995年春頃のNetscape?)まで記録されていました。

 なぜpngにする必要があるかというと、gifが広まった時点で、突然、ユニシスという会社が特許をもちだし、使用料の徴収をはじめたからです。豚は太らせてから食えというわけで、この商法もビジネス特許になるかもしれません。

 gifのライセンス騒動についてはあちこちのページに解説がありますが、ミケネコ研究所がお勧めです。

 gifに全面的にもどるのも残念なので、「IE版」を「IE4以上版」、「Netscape版」を「それ以外版」にあらため、「IE4以上版」はpngでゆくことにしました。ついでに「IE4以上版」ではタグをHTML4.0にできるだけ近づけました。

 タグについては原理主義的なことをいう人が多く、おまえのHTMLは間違っているというお叱りのメールもいただきますが、「ほら貝」の場合、古い版のブラウザの利用者がすくなくなく、折衷的な表記にせざるをえないのです。

 文字コード指定にしても、正規の「Shift_JIS」にすべきだぐらいは知っていますが、「x-sjis」でないとHTML2の標準文字コードだったISO 8859-1と解釈してしまうブラウザを使っている方がまだいらっしゃいます。

 以前、一部のページで「Shift_JIS」を指定したところ、読めないというメールをいただきました。パソコンに不慣れな方らしく、新しいマシンを買うまでは今のままのブラウザでかまわないということでした。IEもNetscapeも雑誌や書籍の付録CDで最新版を無償提供していて、ダウンロードしなくても簡単にアップできると思うのですが、「ほら貝」のように文系ユーザーの多いサイトだと、そうも言っていられないわけです。

 いっそのこと、一部で有名な山田三郎&タヨ子さんのサイトのように、割りきることができたらさっぱりするんですが(半角カナ使い放題で、女子高生もびっくりですが、ソースはもっとすごい)。

 今日は永田町の方の加藤氏がとんだ茶番劇を演じました。足利尊氏になるかと期待したんですが、なんとも無様な結末です。日本政府はIT革命に失敗し、財政も破綻し、朽ち果てていくだけでしょう。

 茶番は茶番として、今国会では重要な法案が出ています。民主党など三党が提出した盗聴法廃止法案住民基本台帳法の一部を改正する法律の廃止等に関する法律案です(住民基本台帳と文字コードのかかわりについては柏市のインタビューをご覧ください)。FBIの盗聴ツールの一端が明らかになったというニュースも流れています。

Dec14

 東京から沖縄や北海道の住民票をとりよせることができるという触れこみの住民基本台帳全国オンラインが動きだしていますが、案の定というか、自治省は独自文字コードを使うそうです。これだけでもあきれますが、JISにない人名漢字、地名漢字がJISやISOにはいる見こみはないようです(詳しくは書けませんが、信じられないことが起こっているのです)。

 郵便局やコンビニでも、その場で住民票がとれるサービスをやろうと検討しているようですが、そのための端末は独自文字コードに対応した独自仕様のマシンにならざるをえません。市町村の庁舎や出張所のマシンもそうです。ここで大きな利権が生まれるわけですが、もっと重要なのは国民総背番号制とのからみです。

 『電脳社会の日本語』の32-6ページに書きましたが、このままだと、文字コードの不備を口実に、住民票番号の使用がなし崩し的に強制されるようになるでしょう。嫌だと言っても、ネットの上では姓名・地名が正確に表記できないのですから、電子申請や電子契約では、個人をアイデンティファイするために、住民票番号を使わざるをえません。

 こういうとんでもない事態が進行しているのに、マスコミがまったくとりあげないのはどうしたことでしょうか。以前、A新聞から漢字関係の取材を受けた際、自治省がきな臭い動きをしているということは申しあげたのですが、一応取材したものの、「大丈夫と言ってますよ」でおしまいでした。文字コード問題はとっくに片づいたとたかをくくっているのでしょう。マスコミ関係者のコンピュータ音痴は困ったものです。

 出版関係もそうですが、中途半端にわかっている人が一番始末に悪いです。メールが出せるとか、WWWを時々閲覧するといった程度で、「コンピュータなんて、こんなものだ」とたかをくくってしまうわけです。

 先月発表した「ムラカミ、ムラカミ」が、今月の「群像」の「批評季評」にとりあげられていると連絡がありました。担当者は「辛口ですよ」と言っていましたが、辛口以前でした。

 今回の担当者の高橋勇夫氏は、まず、昨今の批評の低調の原因は「文学嫌い」と「読み巧者」の両派にあると要約します。「文学嫌い」というのは柄谷行人氏一派の批評家のこと、「読み巧者」の方は純文学とエンターテイメント区別をなし崩しにし、ジャンル意識にとらわれずに作品を読もうとする批評家のことです。高橋氏は前者は村上龍を、後者は村上春樹をもちあげているとしています。

 両村上に結びつけたところは高橋氏独自の見解だと思いますが、これ自体はよくある見方です。「文学嫌い」に対する反発は小説家がよく話題にしますし、「読み巧者」に対しては複数の年配の編集者から愚痴を聞かされたことがあります。

 高橋氏はこの二つの傾向に該当する評論をたたき、「では、もう、作者や作品と愚直に切り結ぼうとする批評はないのだろうか?」と問題を提示した上で、拙論に対する批判がはじまります。

 高橋氏は「ムラカミ、ムラカミ」が「たしかに作品と愚直なまでに関わり合おうとする論考ではある」と認めた上で、こう論難します。

 しかし私はこの論考に終始ちぐはぐな思いを抱かざるをえなかった。というのも、せっかく加藤氏が仮想世界やら悪といった、いかにもそれらしい主題が発祥する現場を両作品に即して再現しかけても、ほとんど必ず次の瞬間には、ネットについての、定食メニューのような蘊蓄が接ぎ木されてしまうからである。

 拙論の核心部分は『共生虫』と『ねじまき鳥クロニクル』第三部をネットの観点から分析したくだりなのですが、高橋氏にはそれが作品とは無関係な「蘊蓄」、「定食メニュー」に見えてしまったわけです。

 高橋氏はメールで入稿する程度にはネットを使いこなしている人だそうですが、そのくらいでネットがわかったと思っていたら、そのうち怪我をするでしょう。両村上はネットの怖さを小説家の直観でつかんでいて、それが『共生虫』と『ねじまき鳥クロニクル』第三部を生んだのだと考えています。

 これまでの変化はネット社会のほんのとば口にすぎず、21世紀の最初の5年間でドラスチックな変化が起こると思います。2005年の年末の時点から、現在をふりかえったら、どう見えるでしょうか。

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